びんずのまめなめも

びんずの日々のめもから、まとめて書きたいことがある時、気分転換に何か文章化したい時、更新します

読書をする場所

今週のお題「わたしと乗り物」

 

読書にふさわしい場所…

カフェ、図書館、布団、勉強机、

いろいろあるが、私が落ち着いて本を読めるのは電車の中。

なんでだろう?ドアの開閉で適度な換気がされるからか、揺れ心地がいいからか、座り心地がいいのか…

 

これは、通学旅問わず。新幹線はあまり向かないかも。新幹線の匂いってバスや車に通ずるものがあってあまり好きじゃない。酔いそうになるし、すぐ眠くなる。ワラ

 

18切符などで鈍行の旅をしながらの小説なんてたまらない。

知らない場所にいて、小説のなかの別世界に連れていかれるのだから、見事に自分の場所を見失う。(物理的に)

ふっと顔を上げて、駅の名前を見てもさっぱり見当がつかない分、さらにぞっとすることもある。

 

ちなみに、こういうことは、通学途中でも起こりうる。

電車で本を読んでいた時、あー次で降りなきゃと思う。でも、次の駅まではちょっと時間があるからまだ読めるな。………………

 

 

と、また本に向かうと、気づいた頃には、降りる駅を過ぎている。

すると、たった一駅むこうに行くだけなのに、景色がまるで違って見えて、無性に怖くなる。

 

突然だが、萩原朔太郎猫町」(昭和10年)の冒頭に、散歩中いつもとは違う道を選んだところ、一気に町が変わって見えたという話がある。

 

「毎日家から十四、五町(三十分から一時間位)の附近を散歩してゐた。その日もやはり何時も通りに、ふだんの散歩区域を歩いて居た。私の通る道筋は、いつも同じやうに決まって居た。だがその日に限って、ふと知らない横丁を通り抜けた。そしてすつかり道をまちがへ、方角を解らなくしてしまつた。

 

かつて私は、こんな情趣の深い町を見たことが無かつた。一体こんな町が、東京の何所にあつたのだらう。しかし時間の計算から、それが私の家の近所であること、徒歩で半時間位しか離れて居ないいつもの私の散歩区域、もしくはそのすぐ近い範囲にあることだけは、確実に疑ひなく解って居た。しかもそんな、近いところに、今迄少しも人に知れずに、どうしてこんな町が有つたのだらう?

私は夢を見てゐるやうな気がした。それが現実の町ではなくつて、幻燈の幕に映つた、影絵の町のやうに思はれた。だがその瞬間に、私の記憶と常識が回復した。気が付いて見れば、それは私のよく知つてる、近所の詰らない、有りふれた郊外の町なのである。」

                  (『萩原朔太郎詩集』現代詩文庫)

 

まあ結局は、方向感覚が麻痺しているだけのことなのだが、

こっちに行ってみたら何があるのだろう?と思って足を進めると、雰囲気のよさそうなお店があったり、地下道があったり、何かしらの発見がある。それがまた家の近くに繋がっていることを知った時にはほくほくと嬉しくなる。

目的地にGoogleMapを見ながら向かうのもいいけど、(てか、用事があって行くなら基本そうするけど)

好奇心のおもむくままに、日常から非日常に迷いこんでみるのも、おもしろい。

 

お題は、「わたしと乗り物」なのに、話がずれにずれましたね。

レポートではよくないけど、ここはブログなので、、  |´-`)チラッ

こんな長文乱文ですが、どなたかに読んでいただけたら嬉しいものです。